行基寺の沿革

 天平の初め頃(約1300年前)、当時、大仏建立の勧進のため諸国を行脚していた行基菩薩が聖武天皇の勅願を得て、美濃・尾張・伊勢の三国の守護霊場山として、この地に七堂伽藍を尽くした菩提寺が建立されたのが始まりです。当山内には行基塚があり、天平宝字元年二月二日に行基菩薩が八十二歳でご入寂されたと伝えられる場所には板碑、七重の石塔(共に重要文化財)が今も残っています。

 南北朝の動乱期(約700年前)、当山は戦乱の際の兵火により全山焼失してしまいましたが、尾張津島の領主ならびに信徒らが、再びこの臥龍山の地に伽藍を建立されました。

 東山天皇の元禄年間(約300年前)、尾張藩二代藩主徳川光友公の次男である松平義行公(徳川家康公の曾孫)が、美濃高須藩の藩主として封ぜられるにあたり、当山を松平家の菩提寺として境内および全伽藍を城郭に見立てて改築し、宝永二年(1705年)に完成しました。

 その後、行基寺は明治維新に至る160年間は一般庶民の登山参詣は禁止されていました。今もなお、松平公ご使用のお駕籠、調度品等々がそのまま残っており、中でも当時使用されていた約2m大の櫓時計は今も時を伝えています。

  • 板碑

    板碑 (現在は公開致しておりません)

  • 七重塔

    七重塔

  • 櫓時計

    櫓時計